瘋癲ノ喜多サン

緊縛を習う(宗教と緊縛)

宗教と緊縛。
片方には神や仏がいて、
片方には縄と裸の身体がある。
まったく別の世界に見える。
しかし、その奥にあるものは、案外よく似ている。

人は、ときどき自分であることに疲れる。
立派な人間でいなければならない。
期待に応えなければならない。
感情を抑え、弱さを隠し、
何もかも自分で管理しなければならない。
そんな、私という重たい荷物を、毎日背負って生きている。

宗教の前で、人は跪く。
自分の知恵や力だけではどうにもならないものがあると認め、
神や仏という大きな存在へ身を委ねようとする。
緊縛の中でも、人はよく似た場所へ降りていく。
腕を後ろへ回される。
身体を縄に預ける。
動く自由を手放し、隠す自由を失い、
逃げることさえやめてしまう。

すると、肩書きも、虚勢も、つくり上げてきた人格も、
少しずつ役に立たなくなる。
最後に残るのは、呼吸し、震え、感じている、
剥き出しの一匹の生き物だ。
不思議なもの
人は自由を奪われたとき、初めて自由になることがある。
何もかも自分で決めなくていい。
強い人間を演じなくていい。
自分という面倒な存在を、ほんの少し忘れてもいい。

宗教が神に委ねよと言うなら、緊
縛は肉体を通して同じ問いを突きつける。
なぜ人は、降伏したいのか、支配されたいからではない。
自分という重荷から解放されたいからだ。
自我の境界がほどけ、自分よりも大きな何かへ溶けていく。
その一瞬に触れたいから、人は跪き、祈り、
そして縄の前で裸になる。

神がいるのかどうかは、知らない。
だが縄の中で、自分を忘れた女の顔に、
神らしきものが現れる瞬間tがあるんだよ。


 

キュレーター紹介

逝かせ縄という妙技を操り、多くの女性を快楽の果てと誘う。東京と名古屋に道場を持ち、日本古来の文化である美しい緊縛を多くの生徒に伝承している。美しくなければ緊縛ではない美しい緊縛は気持ちがいい、それは肉体と精神と性が解放されることだ。
詳しいプロフィールはこちら:https://smluxury.jp/profile/

会員登録をすると
コメントを投稿する事ができます

ログインする 会員登録

コメント

この記事に対するコメントはまだありません