瘋癲ノ喜多サン

性愛(裸)

男は、ときどき不思議な女を選ぶ。
自分より物を知らない女。
自分より稼がない女。
自分より学歴の低い女。
そして、できれば自分の言うことに、そうねと頷いてくれる女だ。

それなのに結婚して何年かすると、
「お前は何も知らない」
「だから女は駄目なんだ」
「俺がいなければ何もできないだろう」
などと言い始める。

妙な話である。
自分で可愛い綺麗だと選んでおいて、
自分で馬鹿にしている。

しかし、これは案外、偶然ではないのだと思う。
人間には、愛するためではなく、
自分の価値を確認するために他人を必要とする者がいる。

相手を見下ろすことで、自分が高くなったような気になる。
相手を黙らせることで、自分が賢くなったような気になる。
相手を依存させることで、自分が強くなったような気になる。

だから本当に怖いのは暴力だけではない。
殴らなくても、人間は人間を小さくできる。
「お前には無理だ」
「そんなことも分からないのか」
「誰のおかげで生活できていると思っている」

そんな言葉を十年、二十年浴びせ続ければ、人はやがて自分から、
「私は大した人間ではない」
と思うようになる。

これは性愛にとっても致命的である。
なぜなら性愛とは本来、
優秀な者が劣った者を所有することではないからだ。
むしろ反対である。
性愛の最も深い場所では、
男の肩書きも、女の学歴も、年収も社会的地位も、
ほとんど役に立たない。

裸になれば、
人間は驚くほど平等だ。
欲情している男は滑稽だし、
感じている女もまた無防備である。
そこには部長も社長も良妻賢母もない。



あるのは、
触れられたい肉体と、
触りたい肉体だけだ。

だから私は思う。
相手を見下さなければ成立しない男に、
本当の意味で女を悦ばせることができるのだろうかと。

性愛には、相手の前で自分の権威を失う瞬間がある。
女の身体が自分の思い通りにならないことを知る。
自分より女のほうが深い快楽へ行ってしまうこともある。
男の技術も知識も自信も通用しない夜だってある。

そこで傷つく男は、
女を支配しようとする。
しかし懐の深い男は、
「俺の知らないところへ行ってこい」
と言える。

私は、ここに支配と性愛の決定的な違いがあると思っている。
支配とは、相手を小さくして自分を大きくすることだ。
性愛とは、ときに自分まで小さくなって、
二人でどうしようもない生き物になることだ。

そして降伏とは、相手の人格を壊して服従させることではない。
安全と信頼の中で、
自分から力を手放せることだ。
強制された服従と、
自ら選んだ降伏は、
外から見れば似ていても中身は正反対なのである。

だから性愛には、その人間の思想が出る。
女を所有物だと思っている男は、
ベッドの中でも女を所有しようとする。

女を劣った存在だと思っている男は、
女の快楽まで自分の採点表で測ろうとする。

そして、その男女を子どもは見ている。
父が母を笑う。
母が黙る。
父が正しいことになり、
母が自分の感覚を疑う。

そんな小さな光景が毎日積み重なって、
いつしか子どもの中に
「男とはこういうもの」
「女とはこういうもの」
という設計図ができあがる。

暴力は拳だけで受け継がれるのではない。
愛し方として受け継がれることがある。

だからこそ私は、
性愛というものを軽く見ない。
誰と寝るかより、
その相手の前で自分がどんな人間になるのか。

支配者になるのか。
所有者になるのか。
採点者になるのか。

それとも、
一人のどうしようもなく欲情する人間として、
相手の前に立てるのか。

性愛とは、
人間の品性が最も裸になる場所なのだと思う。

キュレーター紹介

逝かせ縄という妙技を操り、多くの女性を快楽の果てと誘う。東京と名古屋に道場を持ち、日本古来の文化である美しい緊縛を多くの生徒に伝承している。美しくなければ緊縛ではない美しい緊縛は気持ちがいい、それは肉体と精神と性が解放されることだ。
詳しいプロフィールはこちら:https://smluxury.jp/profile/

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