緊縛を習う(密教)
緊縛とタントラ密教は、どちらも欲望を敵にしない。
人間は長いあいだ、自分の欲望を恐れてきた。
宗教は欲望を戒め、道徳は欲望を飼い慣らし、文明は欲望を管理しようとしてきた。
欲望は理性に従わせるべきものだと教えられ、
その荒々しい生命力は、美しい言葉の奥へ追いやられてきた。
だが、欲望は追放されても消えはしない。
人間という生き物を静かに動かし続ける。欲望とは罪ではない。
それは生命が生命であろうとする、あまりにも自然な運動なのである。
タントラ密教は、その流れに逆らわなかった。
欲望を断ち切ることで真理へ近づこうとはしない。
欲望の真っ只中へ降り、炎の中心を歩き、
その熱の中で自分という幻想を少しずつ溶かしていく。
逃げることではなく、見つめること。拒むことではなく、受け入れること。
その果てにしか見えない景色があることを知っていたのである。
緊縛もまた、同じ場所へ向かう。
縄は身体を拘束するための道具ではない。
身体に触れた瞬間から、縄は心の奥に沈められていた感情を静かに引き上げる。
羞恥、恐れ、期待、陶酔、孤独、安堵。互いに矛盾する感情が、
ひとつの身体の中で渦を巻き、言葉になる前の真実を語り始める。
そこで必要なのは、勝つことではない。
恐れを消そうとしなくていい。
羞恥を恥じなくていい。
快楽を正当化する必要もない。
ただ、そのすべてを自分の一部として抱きしめるのである。
人は縄に縛られるのではない。
縄によって、自分を縛り続けてきた見えない縄を見つけるのだ。
世間体という縄。
善人であろうとする縄。
強くなければならないという縄。
愛されなければ価値がないという縄。
その一本一本に気づいたとき、麻縄よりもはるかに固く身体を締めつけていたものが、
自分自身の内側にあったことを知る。
私は思う。
エロスとは快楽ではない。破壊でもない。
それは、人間が自分という殻を脱ぎ捨て、もう一度、生きものへ帰ろうとする力である。
だから緊縛は性的技法では終わらない。
それは欲望を否定する文化に対する、静かな反逆である。
理性だけでは届かない場所へ降りていくための一本の道であり、
身体という古い神殿の奥で、忘れられていた生命の鼓動に耳を澄ます営みでもある。
欲望を滅ぼそうとする者は、最後には自分自身を失う。
欲望を見つめ、その炎を恐れず歩いた者だけが、
人間という不可解で、美しく、危うい存在の深さを知る。
緊縛とは、その危うさを美へと変える技術なのである。
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