瘋癲ノ喜多サン

性愛(危い)

快楽は、愛に火を放つ
汗が浮かび上がった肌が触れ合うたび、体温は溶け合い、
乱れた吐息は互いの喉の奥に吸い込まれていく。
互いの身体が歓びを知るほど、人は相手をもっと欲しくなる。
もっと深く、もっと激しく、もっと際限なく触れたい。
皮膚という境界線さえ煩わしく、骨の髄まで溶け合ってしまいたいと願う。

指先が肌の湿り気をなぞるたび、声にならない吐息が漏れ、
絡み合う腕の中で理性はとろけて形を失っていく。
だが、その願いは時として静かに姿を変える。
愛したいという思いは、いつしか「私だけのものになってほしい」という欲望へ変わり、
汗で濡れた腕は、知らぬ間に相手を縛る縄となる。

肌は重なり、体液は混じり合っても、魂は誰の所有物にもならない。
それなのに人は、快楽の絶頂で生まれたあの深い感覚
それが境界を曖昧にし、体の熱が混ざり合い、
二人がひとつの熱い塊になる、あの瞬間を永遠のものだと錯覚する。
あの恍惚を失いたくない一心で、相手の肌を、吐息を、震えまでも握り締めようとする。
強く握れば握るほど、汗ばんだ指の隙間から乾いた白い砂がこぼれ落ちるように、
愛は静かに肌を離れていく。

だから愛は、不思議なものだ。
深く愛する者ほど、深く傷つく。
深く求める者ほど、深く貪り、深く焦がれ、深く憎むこともある。
エロスは、神にも悪魔にもなる。
その境界を分けるものは、快楽の強さでも、肌の熱さでもない。
相手を所有しようとする欲望を手放し、それでもなお、
その湿った肌に、その熱に、その存在そのものに焦がれ続けられるかどうかである。

本当に成熟した愛とは、相手を縛ることではない。
たとえ腕の中で強く抱きしめ、肌と肌が汗で溶け合うほどに求め合っていても、
相手の自由な魂だけは、最後まで尊重できる者だけが
その情熱を、消えることなく長く燃やし続けることができるのである。


 

キュレーター紹介

逝かせ縄という妙技を操り、多くの女性を快楽の果てと誘う。東京と名古屋に道場を持ち、日本古来の文化である美しい緊縛を多くの生徒に伝承している。美しくなければ緊縛ではない美しい緊縛は気持ちがいい、それは肉体と精神と性が解放されることだ。

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