縛り手が向き合うべき恐怖の形
喜多征一先生には縄において美学があります。
喜多征一先生の説明は胸に響きました。
もちろん吊り、神経損傷等のリスクからくる緊張感は存在していると思いますが、もっと根本的な自己の恐怖心と向き合わざる得ない瞬間が喜多縄にはあるのです。
それは壱縄の締めに向かっていく一連の動作です。2周完璧なテンションで押し当てられた縄は、一度、流れを殺して仮留めされます。そこから先、①支点を中央に寄せ、縄を送ります。②手の重力による張りを解放し、縄の余剰分を割出し、③緩んだ縄を(余剰分)を回収し、④本留めと共に余剰分を次へと送ります。
弛ませてはいけないと言う思いから余剰以上に縄を回収することで、腕、胸に押し当てられた縄は引っ張られていきます。
引かれすぎた縄は、最初に一番丁寧に作られたテンションを壊し、縄の質を変えてしまいます。
張られた縄が弛む瞬間は縛り手にとって恐怖でしかないのだそうです。
縛りに携わる方なら想像がつくでしょう。
人間は判断能力を視覚情報に頼っています。
緊縛において結果的に弛まった部分のある物は緊縛としてはリスクの高い緊縛と映ります。
そして特に喜多縄においてはその過程から如何に張りをキープ出来るかと言うことが大切な事であり、身動きやその過重によっても縄目の位置や受け手が感じる縄質が変わらない緊縛を目指します。
そのような中で、仮留めの状態から縄が弛むと言うことは緊縛として絶対に起こってはいけない現象として縛り手は認識するのだそうです。
そうして焦り、手早く粗く縄を絞められるだけ締めようとします。そして早く留めてしまいたいと先を急ぐのです。
これが喜多縄において、生徒さんが初期段階から直面することになる大きな恐怖です。
「生徒は怖いんだよ、」喜多征一先生は言います。「本来、縛り手は吊りも含めて、多くの恐怖を抱えてるものだ」「でもその恐怖心と向き合って超えないといけないのが、喜多征一の緊縛なんだよ」
喜工程にして壱縄の留めの前の段階の話です。
その部分で縛り手は自分の恐怖心と向き合い、制圧を迫られるのです。
喜多縄にとって全ての要になります。そして最後まで残る縄でもあります。
その壱縄が崩れていれば先に進むことは出来ません。
喜多征一先生は今の本後手を「私が考えた。よく出来ているいるだろう」と冗談めかして笑いますが、論理的、精神的、物理的に全てがそこにあります。以前喜多征一先生が言った“宇宙”とはこの事だと思うのです。
そしてまた喜多征一先生の縄は、そこに一切の妥協や甘さを許さない作りです。
考え抜かれていない部分がないのです。
全てが完璧でないと喜多征一先生の縄にはなり得ません。
しかし完璧な技巧以上に、最後は優しく抱きしめるようにと言った気持ちの部分が柔らかく圧迫する気持ち良さを作っています。色気や遊び、繊細な美意識がそこに存在しなければ、喜多征一先生の緊縛にはなりません。
“最後は気持ち”
喜多征一先生の人生哲学かもしれません。
それはあらゆるを経験してきた今の喜多征一先生だからこそとも言えそうです。
全くの余談ですが、喜多征一先生のレッスンに受け手で入っていると先生が解説する内容と感覚が合致していくので、とても面白いです。
受け手としても近年の喜多征一先生の言語化と縛りへの観察、指摘と照らし合わせていくうちに見えるものがあります。
何度受けても、そこに喜多征一先生との比較として毎回の気づきがあります。
大体生徒さんが陥りやすい壱縄の質も種類別に分類できそうで、先生もどの時点でその縄の質が決まるのか、生徒さんの性格面からなども含めて分かっています。
先は永いと思いますが真理を覗きこめる方、喜多緊縛に触れて見ませんか。
あなたは、知らない自分と出会うことになるかもしれません。また一人の女性が受け手として変わっていく様を目の当たりにすることになるのです。
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