死にぞこないの記
ある商人の末裔が吐いた言葉。
相互扶助という耳ざわりのいい言葉に、どうしても引っかかる。
綺麗すぎるものには、いつだって裏がある。
軽い本を手当たり次第にめくっているうちに、
ふいに立ちふさがる言葉がある。
「好きに生きて、歓楽を貪って、それで死ぬなら不足はない」
そんな開き直りに、なぜか救われる瞬間がある。
私は思想の人間じゃない。
右でも左でもないし、
ましてや沈黙して従う側でもない。
ただの、よく喋る快楽主義者だ。
それでも、妙に腑に落ちる言葉がある。
「報復の精神こそが相互扶助の真髄だ」
きれいごとの裏側には、必ず貸し借りがある。
恩を返す、裏切ればやり返す。
それは任侠だ。
つまり、暴力の形式が整えられただけのものじゃないのか。
助け合い?
結構なことだ。
だがそれは、無条件では続かない。
感情と利害が絡み合って、はじめて維持される。
その現実を無視した優しさは、ただの空気だ。
震災から十数年。
あのときの「絆」は、いまどこにある。
選挙のたびに語られる理想も、
時間が経てば薄まっていく。
かつて熱狂した政治の政党の名前も、
看板を変え、顔を変え、
結局なにが変わったのか、よくわからないまま今に至る。
むしろ、息苦しさは増していないか。
言葉は増えたが、本音は減った。
正しさばかりが肥大して、
誰も責任を取りたがらない。
原発反対と叫び続けることはできるのか。
あの頃声を上げていた人たちは、
いまも同じ熱で語れているのか。
世界を見渡せば、
かつて「春」と呼ばれた運動も、
いまでは別の顔をしている。
理想はいつも、現実に削られる。
結局のところ
人はそんなに美しくできていない。
だからこそ、どう生きるかだ。
誰かの正しさに寄りかかるのか、
それとも、自分の欲望と折り合いをつけて生きるのか。
きれいごとを疑いながら、
それでもどこかで人と関わらざるを得ないこの世界で、
私たちは今日も、
中途半端に正気のまま、生き延びている。
キュレーター紹介
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