瘋癲ノ喜多サン

緊縛を習う(身体)

緊縛とは、現代にかろうじて残されたエロスの祭壇であろう。

文明は人間を便利にした。
しかし同時に、身体から神秘を奪ってしまった。
宗教は教義を語り、哲学は理屈を積み重ねる。
だが、人を本当に変えるのはいつの時代も身体である。

縄は理屈を越えて身体に語りかける。
一本、また一本と縄が肌を這うたび、
人は名前を忘れ、肩書きを忘れ、
仕事も世間体も、昨日まで抱えていた悩みさえ遠ざかり、
そこには生身の人間だけが残される。

エロスとは性欲のことではない。
生きようとする力であり、
誰かと深くつながりたいという渇きであり、
自分の奥底へ降りていこうとする生命そのものの衝動である。
その眠った衝動を静かに目覚めさせる装置が、緊縛なのだ。

縄師は支配者ではない。人の心の深部へ続く道を知る案内人である。
縛られる者も服従するのではない。
縄を介して向き合う二人は、
言葉では届かない場所へ足を踏み入れる。
感覚は研ぎ澄まされ、呼吸は深くなり、身体は静かに心を追い越していく。
そのとき人は、自分の中に眠っていた感情や欲望、生きる歓びと再会する。

欲望を管理し、感情を均質化しようとする時代だからこそ、
緊縛は異端でありながら、
人間らしさを最も濃密に残した文化でもある。

縄は人を拘束するための道具ではない。
忘れかけた生命の鼓動を呼び覚まし、
人が人であることを思い出すための一本の道なのである。

キュレーター紹介

逝かせ縄という妙技を操り、多くの女性を快楽の果てと誘う。東京と名古屋に道場を持ち、日本古来の文化である美しい緊縛を多くの生徒に伝承している。美しくなければ緊縛ではない美しい緊縛は気持ちがいい、それは肉体と精神と性が解放されることだ。

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