罪を償いたい人々
私は職業柄、時折“悪いところ”を指摘して改善を求める内容で会話をすることがあります。
話をする時には少しの緊張を伴う物だったのですが、ある種の共通点に気づいたのです。
それを指摘すると皆さん一様に、ほっとしたような顔をするのです。
饒舌になり、打ち解けたようにセンシティブな秘密話を打ち明けてくださる方もいます。
それまでの私のイメージでは、“指摘者”というアイコンが、その人にとって都合の悪い事実を思い出させることから、顔を見たら逃げる/言い訳を述べるのだと思っていたので、不思議な気持ちでその現象を見ていました。でも往々にして違うのです。
ふと思い当たるのが、結局のところ人は優先順位にかまけて放置しているだけで、自分の都合の悪い事実も、自分の罪も片時も忘れることは出来ないのではないのかという事実です。逃げられないように追い詰められて、償う時間が強制的に用意されるのを、私も含めて人は待っているのかもしれません。
この心の動きはSMや加虐被虐の嗜好に限らず、誰でも持ち合わせる物なのだと思います。
喜多征一先生の緊縛を受けていて思います。
漠然と自分の中に蟠りがあると知った上で、それを抱えたままと言うことは、ある意味自分を苦しめ続けているのではないでしょうか。
問題の有無とは関係なく、僅かな違和感を流して、諦めてしまうことは自分に対する裏切りと言えると思うのです。
喜多征一先生の緊縛の先には、女性が自分自身をどれだけ大切に出来るかという視点があります。
まずは蔑ろにしてきた自分の人生を、喜多征一先生の緊縛を通じて自分自身に指摘されて、叱られることからスタートするのです。
きっと責められる羞恥や後ろめたさはあるのでしょうが、何処か肩の荷を下ろしたようなホッとする気持ちもあるはずです。
それは特異的な性癖からくる物ではなく、喜多征一先生の器を借りて見える再スタートへの道筋への希望です。
喜多征一先生は“女性の再生”という言葉で表現されていましたが、
どうかこの心内やプロセスを怖がらないで受け止めて欲しいと思うのです。
遅過ぎることはありませんが、自分自身の人生の為には一刻も早い方が良いことも、また事実です。
そして強く責めながらも尚、長年に渡り“辛さ”を持って頑張ってきた女性たちを抱きしめてくれるのも喜多征一先生の緊縛です。
それは自分を大切にする為に用意された時間なのです。(余りにも縛りや責め自体が気持ちよくて楽しくなって浮遊して逝ってしまっていることも多いですが。)
緊縛の受け方も、人生の苦しみ方も、自分の大切にする方法も、それぞれでいいのだと思います。
ただ同じ苦しい思いをするのであれば、未来に繋がるものを。
そして辛そうに見えても、その人にとっては本当に待ち望んでいた時間なのかもしれません。
最後に私は、
私の代わりに私のために真剣に私のことを叱ってくれる喜多征一先生の誠実な緊縛に対して身を預けたいと思うのです。
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