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性愛とセックスは同じもの?

喜多征一先生と関わり、様々な性の形を学ばせていただく様になってから、その大きな軸が“性愛”にあることは分かってきました。

昨今色々な場で密やかに囁かれることの多くなってきたこの言葉ですが、私自身がしっくりくる意味合いの説明に出会う事った事がなく、また喜多征一先生は性愛の多次元的に女性の性を通した生き方や奥深くにある真理や未来を話されるため、私自身の中の喜多征一先生の話の理解度合いの浅さにどうしても不安を覚えていました。
喜多征一先生の講話の内容をより深く理解するために一度、性愛そのものについて考えてみようと思ったのです。

性愛(せいあい、英: Eros)は、本能に基づく性的な愛情、愛着や愛欲、肉体的接触を指す。”

AIに聞いてもしっくりきません。

性に纏わる存在は主観的、感覚的なものや、間接的な自分の中の妄想、二人の愛の関わりから作り出されるものと単独でも成り立つもの、と形は個人単位でも実に多様です。
勿論、全ては本人の自発的な行動が基本ですが、社会や歴史的に目を向けると中には望まれない暴力に分類される様な性行為もあります。そして時には“穢らわしい、忌むべき物、”近年では自己体現や男性に向けた商品需要など、他者の評価に価値が左右される場合もあり様々な取り扱われ方をするために、更に存在が複雑になっているように感じます。
これらから性自体は極めて個人的な価値観で成り立っているといえ、それが公の場での発信がタブー化される要素になっているのだと思いますが、逆に細分化された価値観が水面下でコミュニティを形成し必要な形を取りながら、瑞々しく息づいているのだと思います。
ただしこの存在は“性愛”とは言い難く感じられます。

性愛の語源であるエロスは古く、古代ギリシャ語です。その中では性愛は“愛”のニュアンスも大きく、“喜びを齎すもの”“感情や情熱に突き動かされ、理性でのコントロール不可能な物、平和・トラブル、どちらの火種にもなり得る存在”“生命の繁栄のために不可欠なプロセスの意味合いが強かった様に感じます。
愛情には幾つかの種類が存在しますが、元々は“性”は愛と切り離せるものでは無かったのだと考えられます。

喜多征一先生の話を聞いていると日本は比較的昔から愛と性は切り離して考えられていた歴史もあるのだと思います。
地域性、歴史的流れ、心理学的解釈、どこからバランスが崩れ始め、切り離されていったのかは分かりませんが、現在この二つは別のものとして取り扱われることも多いのではないでしょうか。

今の性愛とは“愛&性”を指すものであり、“愛=性”ではないのです。
これが私の感じていた違和感の正体なのだと思います。
二つの条件を満たす物だけが性愛となりハードルが高くなってしまったのです。
そして性が自分に向かう感覚であるのに対し、愛は“その対象”に向かって派生する物です。
相反する二つの別の存在を同じバランスで取り扱うことはおそらくは至難と言えるのはないでしょうか。

ここまで考えていくと喜多征一先生の使う性愛の中には源流の意味合いを大きく残している様に感じます。
元々は、性と愛は同次元に存在する同一のものであり、生まれながらに人が持ち合わせている情動です。
それは呼吸の“吸う”と“吐く”の動作の様に当然の様にセットなのでしょう。そして生み出された性衝動も愛も境界を曖昧にして、ひとつのものとなり、二人の間で共有されるのだと思います。
性愛とは愛されること、愛することで得られる性的な快感と解釈できるのです。

その様に解釈すれば喜多征一先生の理論を新しい視点でより深く理解できるのだと思います。
性愛においては性行動から得られる感覚を、自分にしかわからない1方通行の決して交わることのない刺激としてではなく、共有される感覚である必要があります。また愛を“与える物”とする思想の垣根を超える必要があります。それは同じものが相手から返ってくることを期待するものではなく、愛することを快感と感じられることです。
そしてまた、性愛は男女間のみで成り立つ物ではなく、その人自身が幸せであることを目指しています。
それは性衝動、そして愛すること自体が自分に向かって作用することを意味するのです。

この様に考えた時、喜多征一先生の理論の一端が見える様な気がします。
性行為に伴う大きな快感とは、相手の感じている快感をも自分の感覚として受け留めてこそだと言えます。そして相手に与えること自体を自分の快感だと認識する事が大切なのだと思います。

ここまでにおいて性愛の定義を詳らかにしようともがいてきました。
私の未熟な言語の中からでも見えてきたのは、喜多征一先生の人自身の性愛の可能性に対する暖かい視線でした。

性愛とはセックスのことなのでしょうか。
自分の情動を明確に渡す相手がいることで性愛を比較的に実感しやすいのだと思います。
しかし今のセックスも性と同様、目的、方法が細分化されています。愛=セックスだと言い切れる時、それは性愛と呼んで差し支えない存在なのだと思います。自分が心から気持ちの良いと感じられるセックスが性愛なのでしょう。
そしてその時、相手もその感覚や感情を共有しているはずです。
性愛の形はセックスだけに限りません。性愛が示すセックスとは身体の感覚の共有という達し得ない理想を持って究極と言えるのではないでしょうか。
そして唯一理想を体現しうるのは自分自身に向けた愛と性衝動を受け入れた場合だけです。
喜多征一先生の緊縛を受けた女性の姿が美しいのは、彼女たちが性的欲求を受け入れ性愛の体現に成功するからなのです。
しかし特に今までの性愛の概念から離脱し、性も愛も自慰行為のみで純粋な快感を得るにはある程度の訓練を必要とするのでしょう。
そのために喜多征一先生の緊縛セラピーなのだと思います。

自分自身のの性愛が深まる事で、よりセックスは深く気持ちいい物になるのでしょう。
ぜひ性愛と言えるセックスが出来るようにしたいですね。

キュレーター紹介

昼は保健室の先生をしています。緊縛という選択があなたの中にありますように

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