その他

信頼の芽か、バッドトリップか。

喜多道場で生徒さんの受け手をしているとSMの話題があれこれ出るのだけど、くり返しテーマになるのが「縛り手の独りよがりな縄になってはいないか?」「その縛りで誰がきもちよくなっているのか?」というもの。

見ているだけでも痛そうで辛そうで、受け手はただ、心身すべての大変さを縛り手のプライドのために耐えている……。そんな関係は、緊縛にあるべきじゃないよね、と。

ビジュアルとしては一見かっこうよく映えるかもしれないが、状況としては拷問でしかないようなものを「プレイ」と呼んでしまうのをリアルやネットで目の当たりにしたとき、わたしの場合はしんどくなる。

したほうの快楽はそのとき達成されたとしても、されたほうにはいったい何が残るのだろうか。「このひとに身を委ねてよかった、次もまたわたしをよろしくお願いします」と言いたくなるようなしあわせな気持ちに包まれて信頼の芽が育っていくはずが、その行為を受けたことで身体だけでなく心の奥底にも傷を負ってバッドトリップをしてしまいかねない。

前回、「緊縛と女風」というタイトルの記事で、女性用風俗のセラピストさんで施術に緊縛を取り入れているひとを探しはじめていることを伝えたが、有償のオプションに入れて「お任せください」と明言しているかたは、わたしが見た限りではあるが全員「縛り手」と「受け手」の関係性について触れたメッセージをSNSで何度も発信している。一方的に痛みを与えるようなものでは決してないし、ひとりでがんばって我慢するべきことでも先ずないよ、と。縛るのは自身の心をあかるいほうへ解放するためであり、拘束されたり依存したりするためではないはずだ。

緊縛やSMといったワードが飛び交う世界にじぶんが足を踏み入れるとき、身体を預けようとおもう誰かを探しだしたとき、関係を育もうとしている相手(縛り手)が以上のことをはっきり伝えてくれるひとかどうかはとても重要だとおもう。そして、実際のプレイがその言葉に則したものだったかどうかを判断するためにも、じぶんで理解しておくことが何より大切だろう。


ちょっとくどくなってしまったけれど、
「皆さんに良きパートナーが見つかりますように」
そんな気持ちを込めて書きました……。

キュレーター紹介

五反田道場の縄受け手。猥談バーの民。なんでもありなフェチフェスのBlogでライターをしています。

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