瘋癲ノ喜多サン
自我取り
自分で言うのもおこがましいが、
わたしの意見には単純な論理がある。
複雑な理屈を積み上げる知性ではなく、
殴られたら殴り返す、
踏み込まれたら刃を向ける、
そんな直線的な筋だ。
それはインテリの議論とは似ても似つかない。
どちらかといえば、
ヤクザのなんくせに近い。
だが、筋は通っている。
わたしは男と女のあいだで起こる
愛情戦争が嫌いだ。
怖いわけではない。
ただ、はっきりと嫌いなのだ。
嫉妬やヒステリーを発端に、
人格を否定し、
やがては血筋や一族までをも呪い出す。
そういう展開を、
人間はあまりにも容易に選んでしまう。
全体を見渡せば、
互いに少し距離を保ったまま愛し合うほうが、
よほど平和的だと思う。
近づきすぎた愛は、
いつも刃物に似た形になる。
わたしは、
嫌いなことをやらずに生き、
ひとりで死んでいく戦士でありたい。
嫌いなことを強制してくる人生に対しては、
徹底抗戦、必死である。
逃げ腰ではない。
むしろ戦う気満々だ。
おのれの人格や血筋は、
どれほど嫌悪しても構わない。
将来はちゃんと見えている。
結局、ひとりだ。
そしてそのひとりであるという確信こそが、
わたしの創作衝動の正体なのだ。
夜中の寝返りも、
自慢話も、
悪態も、
すべては自我を取り除くための作業である。
自撮りではない、自我取りなのだ。
(ある意味自撮りも自我取りなのかもしれない)
それらは自己嫌悪を誘発するための、
小さな儀式なのだ。
削って、削って、
それでも残るものだけが、
わたしなのだと思う。
キュレーター紹介
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