瘋癲ノ喜多サン

喜多征一物語(東奔西走)

先生の四十九日の法要で、現役の男娼縄師の方を富さんから紹介して頂きました。その中には、やはりあの尭(あき)さんもおいでになられました。その他に3名の名前は、伏せておきます。尭さんも含めてみなさん70過ぎで色気のあるイケメン爺さんたちでした。あれから10年以上たちますので、果たしてご存命かどうかは、このとき以降交流がありませんので知る由もありません。富さんのその後も知らないのです。隠密稼業のためみなさん多くを語らずお弟子がおいでなるのかどうかもわかりませんが、みなさん口々に「喜多さんが最後の男娼縄師やからな、がんばりぃや」といってみえたので多分おいでにならないと思います。私が今このお話をさせて頂いているのももしかしたら私の他に男娼縄師がおいでになってコンタクトをしてしていただけたら嬉しいなと思ったていたからでもあります。



法要が終わり富さんとふたりなると、「もうここの道場も返すし私も他に行くからね」「えっ、ここは借家だったんですか?」「先生はなににも執着もしないし、本当に着の身着のままのお人でね」「なので私の素性や名前も聞かなかったのですか」「もともとご自分の過去も話しませんし、家族が居るのか居ないのか、隠密稼業をする人間に地位も財産も必要なし、明日死んでもいいようになにも持たないことに限る。とおっしゃってました。」涙がとまりませんでした。そして先生の生き方に少しでも近づきたいと思いはじめたのです。断捨離をしていつしか男娼縄師を稼業にして人生をまっとうしたいという気持ちがどんどん膨らんでいったのでした。しかし、現実は妻子あり、会社個人の不動産や多くの従業員、なにひとつ手放すことも出来ないのでした。そしてこの日を最後に富さんとも会うことがなかったのです。気丈にも富さんは最後まで涙も見せず、笑顔で私を見送ってくれました。頑張りなさいよの一言もなく。



はじめてのお客さんは、60代の女性でした。詳しいことは申し上げられませんが、先生とは20年来のお付き合いだったとのことでした。私が後手縛りを始めますと吐息にもにた妖艶な喘ぎ声を出され、後手が縛りが終わる頃には深く深く逝かれ微動だされなくなったのでした。20分ほどそのまま放置をして意識がもどりつつあるところを足縛り、腰縄とかけてゆき最後には吊り上げました。2時間ほど縛り、その後一緒に風呂に入り体を洗ってさしあげました。「私は、名和先生の縄しか知りませんでしたのよ、ここ二三日はドキドキしてよく眠れなかったの、でも凄くよかったさすが先生が一目おかれたお弟子さんですね喜多先生は」「いやいや喜多先生だなんてもったいないです。そうなんですか?名和先生は私をそんなに評価させていらっしゃったのですか」「そうよ、あいつの縄は、きついきついけどあったかいんだ、どんな女も骨抜きになる。ありゃあよっぽど女を泣かせきたな、なんってよく嬉しそうにおっしゃってましたよ」その後枕をともにして、朝を迎えました。
70後半のお客さまもおいでになられました。この方は縛りもほとんどせず。お伽も添い寝だけ、布団に入る前にも必ず紅をさして日本女性の鏡のような方でした。肩を抱くと少女のように胸に顔をうずめられとても可愛く、頬に口づけをしていつまでも頭を撫でてあげました。
2か月に一度のペースで東へ西へと新しいタニマチも増え忙しく男娼縄師裏稼業は順調に進んで行ったのでした。



生前先生がおっしゃっていただいた言葉の通り、受け手の方の意見を先生のお言葉として、真摯に逝かせ縄の技術を向上させてゆきましたので、タニマチには好評でいろいろな方を紹介していただけたのでした。上記のおふた方はすでにお亡くなりになられてますので少しお話しを披露させて頂きましたが、その他の方のお話は差し控えさせていただきます。

つづく

前の話を読む【喜多征一物語 追悼そして誕生】
 

キュレーター紹介

逝かせ縄という妙技を操り、多くの女性を快楽の果てと誘う。東京と名古屋に道場を持ち、日本古来の文化である美しい緊縛を多くの生徒に伝承している。美しくなければ緊縛ではない美しい緊縛は気持ちがいい、それは肉体と精神と性が解放されることだ。

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